
交通事故死が日清戦争の戦死者を上回ったので交通戦争と呼んだ根拠となる戦死者数は一万数千人。しかし❗戦闘での死亡者は千数百だそうです。残り一万数千は病死。コレラと脚気とのこと。しかも、講和条約以降の台湾進駐の際の出来事です。かつて、西南戦争で熊本鎮台を守った谷干城が後顧の憂いとなると警告した賠償金、領土割譲が欲しいがために講和直前に攻略した膨湖島の戦いに連なるものでした。満州領有への歯止めが効かなかった原因は日露戦争と理解していましたが、実は日清戦争に伏線があったのです。中国分割に遅れて加わったのが日本なのではなく、最初に領土割譲を受けたのが日本で、賠償金の返済のための借款の担保としてその後の列強の租借が始まったのです。領土分割を要求したのは、反政府民権派勢力。またその淵源は狂信的テロリスト吉田松陰です。蝦夷を取れ、琉球を取れ。而して、朝鮮、満州、蒙古と煽った慮外者。それを忠実に実行した中間上がりの奇兵隊隊長、山県の長州閥。大政奉還のときに、偽勅にはまった慶喜は、ロシア革命のカデット(立憲派)と同じく葬り去られたのです。薩長軍事政権はレーニンのボリシェビキと同根。後のスターリンが全体主義の侵略政策を採ったことに通底しますね。