
日本最初の政党内閣を組織したのが原敬と習いましたが、実体は複雑でした。そもそも政友会自体が伊藤博文が議会対策として1900に作った政党。民権運動の時の自由党を吸収してできたのですが、民権運動自体が維新政府の派閥争い。その証拠に日清開戦を煽って内政重視の政府に対抗したのは自由党です。大隈の党も同じムジナ。かたや、山県の軍閥を体現するのは桂新党の同志会、後の憲政党です。その時の政友会は西園寺。即ち、議会対策としての政党、理念なき私党ですね。政友会の三代目が南部藩家老の血筋で陸奥宗光に取り立てられた外交官出身の原敬。当時は、元老、貴族院、軍閥と並んで政党があったわけで、利益誘導団体でしかなかったのです。まだ憲政党はましなほうで、加藤高明の時に普通選挙や軍縮を実現させています。ただし、内には立憲主義、外には帝国主義の政党。当時、帝国主義を否定したのは東洋経済新報の石橋湛山か、文化人、それに社会民主党くらいです。最左翼の共産党はコミンテルンの指示で暴力による労農独裁を綱領に掲げたくらいの教条主義テロリスト集団。大震災の時に被抑圧層、朝鮮人を糾合して革命を計画したのも事実で、突然虐殺が起こったわけではないのです。ちなみに、私の祖母は炊き出しした築地署で不逞鮮人を傷めつける場面を目撃したそうです。515以来、軍部独裁になって破滅した日本ですが、権力抗争に明け暮れ政党に理念がなかったがために国民から遊離して自滅したのです。底の浅いデモクラシーの悲しさですね。残念ながら敗戦とGHQ の改革がなければいまの日本はなかったのです。